最近、「億女」という言葉を目にすることがある。
キャバクラなどで年間億単位を売り上げる女性たちだ。
ものすごい数字である。
普通の会社員が一生働いても、自分個人の売上として億という数字を作る経験はなかなかない。
営業力も必要だろう。
顧客管理も必要だろう。
見た目を維持する努力も必要だろうし、会話力やセルフプロデュース能力も必要だと思う。
だから、
「そんなもの誰でもできる」
などと言うつもりはない。
むしろ、かなり特殊な能力を持った人たちなのだと思う。
それなのに。
なぜか自分は「億女」というものを見ると、少しモヤモヤする。
最初は単なる嫉妬なのかと思った。
自分よりはるかに稼いでいる人間を見て、面白くないだけなのではないか。
しかし、よく考えてみると少し違う。
その女性が表に出てこないのであれば、自分はたぶん何とも思わない。
どこかのキャバクラに年間1億円を売る女性がいる。
それだけなら、
「すごい人もいるんだな」
で終わる。
自分とは関係のない世界である。
ところが、その実績を肩書きにしてSNSに登場し、
「成功する人間とは」
「稼げる女の考え方」
「人生を変える方法」
といった話を始めると、急に違和感が出てくる。
なぜなのか。
自分なりに考えてみた。
「1億円売った」と「1億円の社会的価値を作った」は同じなのか
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おそらく、自分が引っかかっているのはここである。
市場で高い金額が動いたことと、社会的に大きな価値を生み出したことは必ずしも同じではない。
もちろん、キャバクラにもサービスとしての価値はある。
楽しい時間を提供する。
話を聞く。
承認欲求を満たす。
日常では得られない体験を提供する。
そこにお金を払う人がいる以上、市場価値が存在していることは間違いない。
しかし、そこで1億円を売り上げたことと、
「社会に1億円分の価値を生み出した」
という話は、自分の中では少し違う。
さらに違和感が大きくなるのが、
「1億円売った」
↓
「私はビジネスで成功した」
↓
「私は人生で成功した」
↓
「だから私の考え方を学べば、あなたも成功できる」
と話が拡張されていくときである。
いや。
そこは全部、別の話ではないか。
そう思ってしまう。
特殊な市場での成功は、普遍的な成功法則なのか
キャバクラという市場はかなり特殊である。
一人の顧客が一人の女性に非常に大きなお金を使うことがある。
その世界の中でトップになるには、当然ものすごい努力が必要だと思う。
だから、その能力自体を否定する必要はない。
問題は、
「特殊な市場で勝った方法」
を、
「世の中で成功する普遍的な方法」
に変換できるのかということである。
これはキャバクラだけの話でもない。
仮想通貨で一発当てた人が、
「金持ちになる思考法」
を語り始める。
SNSで一度大きくバズった人が、
「成功する人間の条件」
を語り始める。
投資で大きな利益を出した人が、
「会社員を続ける人間は思考停止している」
と言い始める。
自分が違和感を持つのは、この瞬間である。
成功した事実と、
その人の思想が正しいことは、
本来まったく別の話だからである。
売上は「人格の点数」ではない
これは意外と重要だと思っている。
資本主義社会では数字が強い。
年収1億円。
売上1億円。
資産10億円。
フォロワー100万人。
数字を出されると、その人の発言まで正しく見えてしまう。
しかし、
売上は人格の点数ではない。
1億円売ったから、人間として100万円売った人より100倍優れているわけではない。
金を稼ぐ能力が高いことと、
人間として尊敬できることも別である。
ましてや、
その人の人生観が正しいことの証明にはならない。
自分が「億女」に感じていたモヤモヤの正体は、たぶんここだった。
億を稼ぐことが嫌なのではない。
その数字が、
「私は正しい」
という証明書のように使われることに違和感があるのである。
稼ぐ能力は素直に評価すればいい
だからといって、
「キャバクラなんて大したことない」
と切り捨てるのも違うと思う。
億を売る人間には、何かしら突出した能力がある。
営業力。
人間観察力。
コミュニケーション能力。
顧客管理。
継続力。
セルフプロデュース。
そういった部分には学べるものがあるかもしれない。
ただし、
能力を評価することと、生き方そのものを崇拝することは別である。
ここを混同しないことが重要なのだと思う。
プロ野球選手から努力について学ぶことはできる。
しかし、その選手の投資判断まで正しいとは限らない。
優秀な経営者から経営について学ぶことはできる。
しかし、その人の結婚観まで正しいとは限らない。
同じように、
億を売るキャバクラ嬢から営業術を学ぶことはできても、
その人の人生論まで正しいとは限らない。
「市場価格」と「自分にとっての価値」を分ける
結局、自分が大事にしたいのはここである。
世の中で高い値段がついているものを、
そのまま「価値が高い」と思わないこと。
年収が高い。
売上が大きい。
高級車に乗っている。
高級時計を持っている。
SNSのフォロワーが多い。
それらは一つの数字でしかない。
もちろん数字には意味がある。
しかし、その数字から人生全体の優劣まで決める必要はない。
逆も同じである。
会社員として普通の給料をもらいながら、
好きな趣味をやり、
旅行に行き、
副業をして、
投資をして、
健康を維持し、
自分の時間を確保している。
そんな人生が、億を売る人間より劣っているということにもならない。
何を成功とするかは、
最終的には自分で決めるしかない。
「億女」が嫌いなのではなかった
ここまで考えて、少し整理できた。
自分は「億女」が嫌いなのではない。
億を稼ぐことにも文句はない。
好きなだけ稼げばいい。
自分にはできない能力なら、そこは素直にすごいと思う。
ただ、
「億を売った」という市場での成功が、「私の生き方は正しい」という人生の正当性に変換される瞬間に違和感がある。
そして、その成功体験が、
「これが成功者の考え方だ」
として社会に拡散されることに抵抗を感じるのである。
金を稼ぐ能力。
市場から評価される能力。
人間として尊敬されること。
幸せな人生を送ること。
社会に価値を残すこと。
これらは重なる部分もある。
しかし、全部同じものではない。
だから自分は、
「億」という数字を見ても、それだけで頭を下げる必要はないと思っている。
数字は数字として評価する。
能力は能力として評価する。
しかし、
その人の人生まで正解だとは思わない。
それくらいの距離感で成功者を見る方が、たぶん健全なのである。